西日本新聞の「石村萬盛堂が事業譲渡」という記事を見て、目を疑いました。
かつて博多みやげの代表格の1つが鶴乃子でしたし、ホワイトデーを始めるなど革新の伝統もある石村萬盛堂さんが?!と心底驚きました。
石村萬盛堂さんとは、作業所の頃からですから、もう20年以上お付き合いをさせていただいています。
お付き合いの始まりは、福岡市が設置した「障害者の就労支援のあり方検討委員会」でした。
当時、福祉作業所の多くが「障がいのある人の居場所づくり」を主な目的にしていた中で、ジョブサポートは「障がいのある人が社会の中で働き暮らす」を目的に掲げていたので、どんなことをやっているのか、支援の実際を話して欲しいとの要請を受けて、ジョブサポートの実践を報告させていただいたその委員会に、経済界の代表委員として、石村前専務が参加しておられたのです。ご自分から手をあげて委員になったと言っておられました。
その委員会での出会いがキッカケで、ジョブサポートの活動に関心を寄せてくださり、いろんな仕事を発注していただきました。
あの頃は、「障がいのある人が仕事をする」ということを想定している企業は、ほとんどなく、企業から直接受注できて正当な対価を得られる仕事は、ほぼない時代でしたから、本当にありがたいことでした。
1番初めにいただいた仕事が、「仙崖もなか」の包装に挟む「仙崖和尚の句」が印刷されたしおりを折る作業です。和紙でできた細いしおりを二つ折りにするシンプルな作業なのですが、細かな作業で根気と集中力、体力も鍛えられます。
この作業の精度も作業量もピカイチだったAさんは、パンの製造工場に就職して既に10年以上が過ぎました。今も元気に働いておられます。
その他にも「この作業はできますか?」と連絡をしてくださって、ずいぶんいろいろな作業をさせていただきました。
また、新しい試みの相談にも、正面から受け止めてくださいました。
石村前専務に、「店舗に出向いて」「店員さんが片手間にやっておられる仕事の一部、例えば店舗周りの清掃や、バックヤードでお菓子を包む包装資材の制作など」を「数名のグループと支援者」でやらせていただけないかと相談したところ、「店員も販売に集中できるし、やりましょう!」と応じてくださいました。
この企画は、アメリカで、重度の障がいのある方のケアの一環として「1日に1時間だけ」「職場に出向いて」「支援者の支援を受けて」「職場に必要な仕事をする」というプログラムの実践をヒントにして企画した試みでした。
このチャレンジの狙いは、いくつもありました。
- 「企業就労の準備の一環」として「実際の職場で働く体験」ができる。
- 「支援者が同行する」ことで、障がいのある人にとっても、職場にとっても、安心してチャレンジできるのではないか。
- 雇用就労はムリと思われる「重度の障がいのある人にとって」も「支援があれば」誰かがやっていた「その職場に必要な仕事をする」ことができるのではないか。
- 障がいのある同僚が1人もいない職場の従業員にとって、「障がいのある人が目の前で働いている」ことや「支援者がどのように支援しているのか」を体験できることは、障がいのある人の働く場を拡げる第1歩になるのではないか。
- 「誰かがやらなければならない仕事」であれば、当然「最低賃金以上の時給」が想定できるので、工賃アップが図れるのではないか。
- 店舗では、お客様への挨拶や配慮が必要で、常に他者を気づかう行動は、職場で働くための必須の訓練となる。
等々です。
香椎宮の近くの勅使道店が始まりでした。
店舗周りの清掃の他に、無料サービスのコーヒーをお出しする準備やコーヒーメーカーの洗浄、飾りリボンの制作(作業名「ちゅるちゅる」)など、いろいろとさせていただきました。あの頃は私も支援に行っていましたから、「ちゅるちゅる」の作り方など、ありありと思い浮かべることができます。
20年の間には、平尾店や西長住店、二又瀬店にも長く行かせていただきました。勅使道店だけは今も続いています。
今は、2006年施行の障害者自立支援法の中に制度化された施設外就労として実施しています。
20年前、石村前専務が、「障がい者がはたらく」ことに関心を寄せて下さらなかったら、この20年間、石村萬盛堂の店舗スタッフの優しい目がなかったら、製造部長のご配慮がなかったら、ジョブサポートは、利用者の皆さんのニーズに十分に応えることができなかったかもしれませんし、就職して行った方々の就職までの時間が、もっと長くかかったかもしれません。
心より感謝申し上げます。
事業は継続されるとのことでした。これからも、どうぞよろしくお願いいたします。